結局のところ、政治(町政)というものは民度を表す鏡である。有権者の意識が低ければ、それだけ政治のレベルも低くなるのが真実のようだ。良い政治(町政)を期待するならば、有権者にもそれなりに責任がある。有権者としてなすべきこと、あるべき姿とは何だろうか。
投票率は低下の一途だ。有権者はなぜ投票に行かなくなったのだろう。若者の投票率が低いのはいつの時代も同じだ。ただでさえ少子化が激しく、絶対的な若者の母数はかつてと比べ物にならないくらい少なくなってしまった昨今、投票率全体の低下の理由にはならない。総務省の調査では若者だけではなく、全世代の投票率が同じように低下している。なぜ有権者は投票に行かないのか、もう少し掘り下げてみたい。
よく聞く理由のひとつに「自分が投票したところで何も変わらない」という意見がある。この考えは二つの点でとても残念だ。あなたの投票で政治が、世の中が変わるのならば、あなたは満足して投票に行くのだろうか?ある社会問題についてあなた一人がYESに投票し、他の99人はNOに投票したとする。
開票の結果、NOの99票は無視して、あなたのYESの1票を優先して最重視する。そしてその社会問題がYESになれば、あなたは満足するのだろうか?そうやってあなたの投票を最優先にしてくれる社会ならば、あなたは投票に行ってくれるのだろうか?
それを独裁という。民主社会ですらない。そんなことぐらい自分で気づいてほしい。民主社会において、主権者の一票はそれこそ砂粒のように小さい。でもそれが数百、数千、数万と集まり、石となり岩となるから尊いのだ。
もうひとつの残念な点は、あなたの「何も変わらない」という意識だ。裏返せば、あなたは「変わるべきだ」と願っているのだ。少なくともあなたはこの社会の現状に問題意識と危機感を持っているのだ。その熱意を投票で行使しないとは本当にもったいない。
投票に行かない理由として「投票したいような候補者がいない」という意見もよく聞く。厳しいことを言うようだが、与えられた選択肢で選ぶしかないと思う。自分にとって、どの候補者がベストか判断できるまで徹底的に調べて、貴重な一票を使うべきではないだろうか。
そうは言っても忙しい毎日を送る中、候補者の主張や実績を調べている時間はない、という方も多いだろう。それなら前回の連載で記したように、町政に詳しい5人以上の知人や友人に意見を求めて参考にすれば良いだろう。一人や二人では心もとない。特定の候補者の熱烈な支援者・後援者かもしれないからだ。
それでもあなたの貴重な一票の価値に値する候補者がいないと嘆くなら、「あなた自身が立候補すれば良いのではないか」という反論もよく聞く。自分が立候補すれば投票先に迷わなくて済むが、現実的ではないだろう。長年勤めた今の仕事をやめて、当選するかどうか何の保証もない「選挙」に立候補できるだろうか。ごく一部の人を除けば、ハナから無茶な選択肢だ。
投票するに値する立候補者はいない。あなた自身が立候補するのも現実的ではない。どうすれば良いのか。それはあなたの思いを託せる新たな候補者を「育て」、「擁立し」、「支援する」ことだ。後援会組織などいう大げさなものでなくても良い。もっと草の根的で地味な支援でも十分だ。
しかし誰かに「立候補してくれ」と急に頼んでも、すんなり承諾する人などいないだろう。だからあなたは見込んだ候補者を説得し、何年もかけて育て、本人が安心して立候補できるくらいの「仲間・同志の輪」を作る責務もあるのだ。
健全な民主主義を維持するためには憲法12条にもあるように、私たち主権者にも「不断の努力」を求めている。ただボンヤリ待っていれば、あなたの理想にピッタリの候補者が現れるほど、現実は都合よくできてはいないのだ。
以上のことをまとめてみる。次の3つの理由で「だから私は投票にいかない」は正当化されるだろうか?(1)投票したい候補者がいない。(2)自分は選挙に立候補しない。(3)新しい候補者を探す気も、応援する気もない。―――私としてはさすがにどうかと思う。
(2)は論外だとしても、(1)と(3)が顕著だからこそ、投票率は全世代で下がっているのだろうと私は考える。忙しい現代人には候補者を吟味したり、探し出して育てる時間も余裕もないのだろうと思う。しかし忙しさを理由に「不断の努力」を怠るようでは憲法の軽視であり先は暗い。
どんなに忙しくても、時間に余裕がなくても、私たち有権者は人生のほんの少しの時間でもいいから、私たちの思いを託せる「代表者」には誰がふさわしいのか、真剣に考え話し合う労力が必要だ。自発的にそういう時間を作ろうとしないと、候補者を選択するあなたの作業はますます単純化される。
それがどのような結果を招くのか。あなたもよくご存じだと思う。
(はこべ7月号に掲載。次号へ続く)